アメリカ留学
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なぜ留学か?

昔から人と違うこと、人が驚くようなこと、人がうらやましがるようなことをいつかやってやろうと思っていた。しかし具体的には何をして良いかわからずにいた。就職して三、四年経過し、「今、何かやらなければ、つまらない一生を送る」と思い、本当にこのままで良いのかと、将来について真剣に考えだした。大学院は、短大にいたときから興味があったが、どうせ一生に一度の大学院での勉強なら徹底的に勉強しようと思い、アメリカの大学院を目指した。

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大学院進学計画

やりたいことが決まったのは良かったが、小、中、高と真面目に勉強せずに来た自分が、本当にアメリカの大学院で言語と目のハンディーを抱えながら、やっていけるのかは、はっきり言って全く自信がなかった。自信がなかったというか、自分がどれだけアメリカの大学院でやっていけるのか、想像もつかなかった。なぜなら、中学の時に視力が落ちて以来、自分同様、目の悪い人たちと共に勉強してきたのだから、アメリカに行くとなると、全てを英語で勉強するのはもちろん、視覚に障害のない人たちと共に勉強しなければならないことになるとわかっていたからだ。当時、自分は短大しか出ておらず、大学院に入学するには当然大学を卒業している必要があった。そこでまず考えついたのが、アメリカの大学に編入して、とりあえず学士を取る、ということ。そうすれば、大学を卒業する頃には英語も上達しているから、アメリカの大学院に受かる確率も高くなるし、入れた場合そこで成功する確率も上がるだろうと考えたからだ。もし必死に勉強しても、アメリカの大学を卒業するのが精一杯で、大学院に進学するほどの成績が残せなくても、アメリカの大学卒というものが残り、何もやらずに後で後悔するよりも、やるだけやってみてダメだったのだから「自分の能力もわきまえずに、デカイ夢を持ったものだ」とあきらめがつく、と今考えるとやけくそな考えだった。とにかく何か行動を起こさずにはいられなかったのだ。結局無事、アメリカの大学を卒業し、修士課程ももう終え、1999年に日本を発った時には、本当に「夢」としてしかとらえていなかった博士課程にまで進学することが出来た。何でもやってみるものだと本当に思った。自分を良く知っている人なら、「井口はそんなに優秀だったっけ?」と驚いているだろうが、自分が一番驚いていたりする。

当然日本の学士もアメリカで認められるので、日本で大学に編入して、日本で学士を取ってから、アメリカの大学院に進学することもできたし、そうした方が、アメリカの大学を卒業するよりもかかる時間もお金も少なくて済んだだろう。遠回りをしたように思えるかもしれないが、アメリカの大学を出て良かったと思う。目のハンディーに対してはもう何もできないが、言語のハンディーは努力次第で軽減できるのだから。

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なぜアメリカか?

正直言って別に留学先はアメリカでなくても良かった。ではなぜアメリカを選んだのかというと、日本で取った単位の移行が他の英語圏の国に比べ、容易だったからである。日本の短大で取った単位を少しでも多く移行して、少しでも早く大学を卒業したかったので、アメリカにした。他の英語圏の国に比べ、アメリカが特別好きというわけでもない。といっても他の英語圏の国に行ったこともないので、比べようがないのも事実。

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親の反応

さて、アメリカの大学院留学を目標にしたからには、当然親にその旨を告げる必要がある。これがつらかった。なぜかというと親は絶対に賛成してくれないということが分かっていたからだ。今でもよく覚えている。父は仕事で遅かったので母と二人で夕食をとっていたときだ。両親が二人そろっていては、反対されるのも二人、説得しなければならないのも二人になってしまう。父は手ごわいので、まずは母を選び、「あのさぁ、アメリカの大学に留学したいんだけど・・・」と切り出してみた。
「留学するって今の仕事はどうするの?」と、母。
「辞める」と一言私がいうと、
「えー、だめだよ」と、母。

予想通りの反応だ。理由は簡単。両親はその当時の私の仕事に満足していたので、「辞めるのはもったいない」と思ったからだ。うちの母など今でも時々口にしているが、「正樹が小さいときには、この子は目も悪いし、頭も悪いし、自分でお金を稼いで食べていけるのかしら」と、真剣に悩んでいたらしい。小学校のときに成績が悪かったのは事実だが(いわゆるアヒルの行列)、自分では勉強しないから成績が上がらないのであって、やれば出来ると思っていた。そんな何も期待していなかった息子が国家資格を取って病院に勤務して給料を稼いできたのだから、それだけで両親は大喜びだ。普通の生活がうちの息子にも出来たと喜んでいる両親と、普通では満足できない私、話が合うわけがない。

「留学って何年行ってるの?」と、聞かれたので、「二年」と答える。「そんなに長く?」と、母。

これも予想通り。この時点で、大学に留学するのは、大学院に留学するためと決めていたので、大学卒業までに最低でも二年、その後大学院修士課程でさらに二年の計四年は最低でも留学したいと分かっていたのだが、とてもいきなり「四年」などとはいえなかった。あまりにも一度に心配をかけすぎるだろうと思ったので、「二年間留学して、帰ってきたらまた仕事を探す」と、嘘をついた。第一、大学院に受かるという保証もなかったのだから、「雲をつかむような話」と言われてしまう。大学院については、大学卒業間近にもし大学院に受かる自信があったら、「あともう二年留学したいんだけど」と、告げたほうが賢明だと思った。親には心配をかけてすまないと思うが、親の言うことをいちいち「はい、はい」などと聞いていては、何も出来ないうちに一生が終わってしまう。心配かけた分は、今後自分がビッグになることで埋め合わせできるだろう。

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英語と金の準備

その後両親と話し合った結果、私の留学に対する熱意が伝わり、賛成は相変わらずしなかったが、最後にはあきらめたようだ。この頃の私は、人に反対されればされるほど、「絶対に留学して、何かをものにして日本に帰ってこないといけない」と、感じていた。「留学してよかったね」といわれることによって、自分が正しかったことを証明できるからだ。

このようにますますやる気が増してきたのが、留学の10ヶ月ほど前。ここからはひたすら英語を勉強した。留学費用を稼ぐために渡米直前まで働かせて頂いたが、仕事以外の時間はすべて英語に費やした。毎朝、早起きをして、出勤の準備をはじめるまで丸二時間英語の勉強をした。早朝だからテレビは何もやっていないし、電話もかかってこない。勉強するには最適だ。出勤時は英語のテープをひたすら聴いて耳を慣らす。仕事から帰ってくると、夕食、風呂以外は寝るまで再び英語の勉強。目が悪いのだから、英語で引っかかっていては絶対にやっていけないと思ったから必死だ。それに、親には金銭的に絶対頼らないと決めていたにもかかわらず、自分の貯金はどう計算しても二年間しかもたないと分かっていた。英語でつまずき、単位を落とす、卒業が延びるなどがあっては金が底をつき、留学が困難になるので、そういった意味でも少しでも高い英語力が必要だった。人間、このように追い詰められると、とりつかれたように勉強するものだ。

一方、金のほうは収入は月々決まっていたので、支出を減らすのみで、無駄遣いを極力減らした。私の場合、若い人がお金をかけがちな車は運転できないし、親と同居していたので、貯めようと思えば割りと簡単にお金を貯めることが出来た。

こうして、二年分の留学費と自分なりに鍛えた英語力を頼りに、単身渡米した。

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なぜBenedictine 大学か

大学の留学先をどうやって決めたかというと、まず地域だが、私が昔世話になった英語の先生の息子さんがその当時イリノイ州のシカゴにいる、ということを私が留学の相談をしたときに先生が教えてくれたのがきっかけで、そのあたりの大学を探し始めた。その息子さんとは個人的に全くつながりもなかったし、彼を頼りにしていたわけでもないが、国がアメリカということしか決まっていなかったので、何でも良いので地域を限定する理由が必要だった。

次に、シカゴ周辺の大学の中でも、私立で小さい大学を選んだ。公立の大きい大学は学費は安いかもしれないが、私のようなハンディーだらけの人間はおいていかれそうな気がしたので、少しでも面倒を良く見てくれそうだという考えからだ。自分がどれだけ出来るかわからないので、初めは慎重に行く必要があった。

その後、シカゴ周辺の私立で生徒数の少ない大学宛に、入学案内の資料を請求する手紙を何通か出した。留学先をBenedictine大学に選ぶ決めてとなったのは、その手紙に対する返事だった。他の大学は「Dear」の後の名前を私の名前に変えただけ、あるいは「留学希望の生徒様へ」といった具合だったのに対し、Benedictine大学からの返事は、私の名前が書かれていたのに加え、「日本からは〜大学から何名、〜大学から何名」と内容まで私用(あるいは日本人用)に書かれていた。これを読んだときに、この大学が一番良く面倒を見てくれそうだと感じたので、最終的にBenedictine大学を選んだ。

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大学での勉強

大学への入学はいわゆる条件付入学というやつで、外国人が受ける英語のテストであるTOEFLは受けなかった。通っていた語学学校で手紙を書いてもらい、そのテストは免除となった。やる気満々ではじめた一学期目だが、その成績はかなり悲惨で、大学院にいけるかどうかという前に、いつ大学を卒業できるか、というほどで正直留学をやめて日本へ帰ることもしばしば考えた。

しかしあれだけ日本で金を貯めて、英語を勉強して、親、友達に餞別をもらって、一生に一度の大決心をしてきたのだから、もう一学期だけがんばってみようと思った。デカイことを言って渡米した手前上、「思ったより大変だから、帰って来ました」ではかっこ悪すぎる。それに一学期であきらめていては、一生後悔すると思った。そのかわり次の学期も成績が上がらないようであれば、本当に帰ろうと決めていた。

そして二学期目、終わってみると廊下に名前が張り出されるほどの好成績。前学期との違いは何かというと、授業を録音しだしたのだ。分からなければ分かるまで繰り返し聞いて、それでも分からなければ教授に聞く。完全に勉強に対する態度が変わった。「よく勉強した」とか「あまり勉強しなかった」などというのは、その人がそれまでしてきた勉強量との比較の結果である。決して他人の勉強量との比較ではない。自分の場合、全く勉強しなかった高校生のときよりも、短大のときのほうが勉強したので、短大在学中は「自分はよく勉強している」と、感じた。同様に、短大にいたときよりも、留学最初の一学期目のほうが勉強していたので、「よく勉強していた」と感じたが、それはただ単に「よく勉強したつもりになっていただけなのだ。アメリカの大学で好成績を残すには、短大での勉強量は基準として低すぎたのだ。

成績は上がっても、正直大学はあまり楽しいものではなかった。理由は、自分が興味を持っていないことを勉強しなければいけない、ということ。自分が大学院で勉強したいものとかけ離れたものばかりだったので、はやく卒業して大学院へ行きたかった。それに、いくら好成績を残していても大学院に受かるという保証はなかったから、実際に受かるまではずっと不安だった。

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夏休み

よく知られていることかもしれないがアメリカの大学の夏休みは長い。ニ学期制(春と秋学期)の場合、五月半ばに春学期が終わり、八月終わりに秋学期が始まるとすると、その間の丸三ヶ月が夏休みとなる。

私の場合、日本の短大からの編入のため、大学卒業に要した期間は二年半だった。その間に夏休みが二回あり、ひたすら勉強の学期中とは違う生活ができたので、ここに書いてみたい。

まずは、初めての夏休み(2000年)だが、たぶんこの時が留学中一番体力的につらいときだったと思う。なぜかというと、昼間は力仕事をして、夜に授業を取っていたからだ。

学生ビザで留学している学生は、勉強目的で入国しているため、学期中は、学部生では一学期に最低12単位(院生は9単位)を取る、働く場合はキャンパス上の仕事に限り週二十時間以内で、というように、仕事に明け暮れることなく勉強に集中させるための規制がある。しかしこれは学期中のみのことで、夏休みは例外である。授業は取っても取らなくてもいいし、仕事も(キャンパス上はキャンパス上だと思うが)フルタイム(週四十時間)行ってかまわない。

学部生だった私は、学期中は勉強に追われ仕事をする余裕がなかった。しかし夏休みは別だ。金に困っていたので夏休みにフルタイムで働ける機会を逃すわけにはいかない。春学期終了間際に、キャンパス上でどんな仕事が出来るのかということを尋ねにキャリアサービスのオフィスに行くと、その時は夏休みがあと数週間で始まるというときだったので選択肢が限られていた。その中に「キャンパスサービス」があり、仕事の内容を聞いてみると「力仕事」といわれた。

私は目が悪いので、事務には向いていないと思ったし、「頭と体とどっちに自信があるか」と聞かれたら、迷わず「体」とこたえる人間なので、ちょうど良いと思い、その仕事を選んだ。

そして春学期の期末試験が終わり、夏休みと同時にこの仕事が始まった。朝七時から三時半までこの仕事をして、夕方六時半から九時まで授業を取るというのが、月曜日から金曜日までの日程だった。

仕事の内容は、文字通り力仕事だった。秋学期は、アメリカでは新学期にあたるため、学生寮では机、ベッドなどの家具を一度部屋の外へ出し、じゅうたんをクリーニングする。この際の家具の出し入れが私たちの仕事だったし、新学期ということでオフィスの机、本棚などの移動も私たちの仕事だった。こうやって一日中力仕事をした後の授業は最悪だ。授業中は集中できず、授業が終わった後に録音したテープを聴くのだが、その途中でも居眠りする有様で、何度巻き戻して聞いたことか。

しかしこの仕事が思わぬところでプラスに働いた。仕事中は六人のグループで働いたのだが、その中に一人高校生がいた。アメリカの高校生は年齢以上に大人だと感じていたが、こいつは違い、まるっきりガキだった。アクセントのある英語をしゃべる私を馬鹿にし(英語が出来ないと、頭が悪いと思われることがある)、ちょっかいを出してくるのだ。こいつは口ばかりで、背は私より小さいし、力は私より弱いし(重いものを運ぶ仕事だったので、力の差は見てすぐ分かった)、年もずっと下だったので、まったく恐れることはなかった。恐れることはなかったが、私にもプライドというものがある。アメリカに来る前は、一応病院で白衣を着て、患者様に「先生」などと呼ばれてたりしていたのに、アメリカでは何の資格もない、その国の言葉も変なアクセントつきでしゃべる、目に障害のある大学生だ。このときは、自分がそれまで日本で手に入れたものが、一歩日本の外に出るとたちまち通用しないという、現実の厳しさと世界の広さを実感した。それと同時に、「必ず大学院へ進学しなければいけない」、とも思った。大学院へ進学して「修士」、「博士」、あるいは「理学療法士の資格」など、この国でも通用するものを手に入れたい、と心の底から思った。当然これがその後大学で良い成績を維持するための力の源となり、無事大学院へ進学できたのである。

二回目の夏(2001年)は、その次の学期に三クラスさえとれば卒業できると分かっていたので、授業は取らなかった。授業を取る必要がなければ、アメリカに残っている理由もない。アメリカでは力仕事しか出来なかった当時の私でも、日本へ帰れば理学療法士として働かせてもらえるからだ。そのため、二ヶ月ほど日本の病院で働かせていただき、再びお金を貯めることが出来た。

非常に大変な夏休みだったが、こういう経験もしたからこそ、今、自分がここでこうして勉強できているのだと思う。